おもしろ化合物 第28話:「イモリは見ずや君が袖振る」
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
あまりに有名な万葉集巻一にある額田王(おお、一発変換!)の歌です。これを永井路子はこう訳します。
“あかね色に匂う紫の草の生いしげる標野をあちこち行き来なさりながら、あなたは盛んに袖を振っていらっしゃる。まあ、そんなことをなさって、野の番人に見つけられませんか。”
天智天皇が蒲生野(現滋賀県)の標野(御料地)に狩に出たときに妻である額田王が歌った歌ということになっています。その「袖を振っている」のは誰あろう天智の弟、大海人皇子。その返歌が次です。
「むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも」
“紫の美しい色のように、匂いやかな、あなた……もし、あなたのことが憎らしかったら、何もこんなふうに恋い慕いはしませんよ。もう人妻になっているあなたなのに……。”(同上)
なんというスキャンダル(笑)。それはともかく、ここに出てくる「袖を振る」というのはこの時代の愛情を表す表現です。なかなか奥ゆかしくていいですね。
さて、その名も「sodefrin」という化合物があります。構造は以下の通りです。
Ser-Ile-Pro-Ser-Lys-Asp-Ala-Leu-Leu-Lys
別に変哲もないデカペプチドですね(なあんだ、といわないでください)。この化合物は、アカハライモリのオスの腹部肛門腺から分泌されてメスを誘引する活性をもつ性フェロモンです。両生類に見出された初めてのフェロモンであり、脊椎動物で初のペプチドフェロモンで、10-12M濃度で活性を示します。
それにしても、イモリの性誘引物質にあっぱれ「sodefrin」とはよくも名づけたものです。こういうセンスは見習いたいものです。構造は別におもしろくありませんが、名前の素敵さは第一級ですね。
ref. S.Kikuyama et al., Science, 267, 1643 (1995).
なお、文中の訳は、永井路子「万葉恋歌」、光文社、1995、から引用させていただきました。