図9
<立体化学:鏡像異性>
キラル炭素と鏡像体:sp3炭素のもつ4本の結合の手は、炭素を中心とした正四面体の頂点方向にのびている。この4本の共有結合の相手として4種の違った原子あるいは原子団が結合した分子を考えてみよう。たとえば、乳酸は炭素にカルボキシ基(CO2H)、メチル基(CH3)、ヒドロキシ基(OH)、水素が結合した分子である。この乳酸には2種の異性体が存在する。これは炭素にABCDの4種の異なる置換基を配置する方法に2通り存在するからである。炭素の4本の手に2種の異なる置換基ABを結合させる方法は1種類しかない(2種の置換基で正四面体の一辺を規定でき、正四面体の辺はすべて等価なため)。残る2本の手にさらに2種の置換基CDを結合させるときに、C/DとD/Cの2種の可能性があり、これが異性体になるためである。ひとつでも同種の置換基がある場合、すなわちABCCの場合は異性体ができないことは上記より自明である。
この4種の異なる置換基をもつ炭素を不斉炭素、あるいはキラル炭素とよぶ。キラルとはギリシャ語の掌に由来することばで、ちようど2種の異性体が右手と左手の関係、すなわち鏡像関係にあることを意味している。事実、乳酸の2種の異性体は互いに鏡像関係にあることは、真中に鏡面(σ)をおいてみるとよくわかる。このような異性体を鏡像(異性)体あるいは光学異性体という。光学異性とは、この両異性体が平面偏光を互いに逆の方向に回転させる性質をもつことに由来する。この性質から異性体の区別にd-体、l-体(d:dextrorotatory,右旋性、l:levorotatory,左旋性)あるいは(+)-体、(-)-体(+は時計回り、-は反時計回り)の呼称が用いられることがある。ただし、鏡像異性を生むもとである原子の空間配置の差と旋光性の方向には一定の関係がないことから、現在ではより一般的な異性体の区別として、(R)-体、(S)-体(4種の置換基に順位をつけ、最低順位の置換基の裏側から見て、残りの3個の置換基が順位の上位から順に時計回りに並んでいればR、反時計回りならS)の呼称を用いる。
生体とキラル分子:このように、鏡像異性体は旋光性が異なるが、違いはそれだけであり、その他の物理的性質、化学的性質はまったく同じで区別できない。この点がこれまでに学習した構造異性体、幾何異性体との大きな違いである。ただし、生物に対する作用は大きく異なる。それは、生物をかたちづくる生体分子がそもそもキラルだからである。
4種の異なる置換基をもつ炭素を含む分子はすべてキラルであるから、アミノ酸(R-C*H(NH2)-CO2H)や、糖(HOCH2-(CH*(OH))n-CHOなど)などほとんどの生体分子はキラルであり、鏡像異性体をもつ(C*はキラル炭素)。キラルな分子は他のキラルな分子を区別することができる。これは右手と左手がそれぞれ右手袋と左手袋を特異的に区別できるのと同じ理屈である。
乳酸脱水素酵素(LDH)は、乳酸を脱水素してピルビン酸にする反応(とその逆反応)を触媒する酵素である。この酵素は2種の異性体のうち、(S)-乳酸にしか働かない。つまり、キラルなタンパク質である酵素がキラルな乳酸分子を識別して、(S)-体とのみ相互作用しうるからである。生体内の分子のレセプターはタンパク質であるから、味、匂いや薬剤の薬理作用は両鏡像体で異なる。
キラル、アキラル、ラセミ体:キラルの反対語はアキラルという。キラル炭素などのキラル要素(キラル炭素だけとは限らない→おもしろ化合物第1話、第2話、第10話、第12話など)をもたない分子はアキラルであり、したがって平面偏光の旋光性も示さず、鏡像異性体ももたない(鏡像が自分自身と重なり合う)。それとは別に、キラル要素をもつ化合物でも、両鏡像異性体が当量ずつ混合していると、見かけ上旋光性を示さない。このような混合物をラセミ体という。試験管内の反応でキラル炭素をもつ化合物を合成しても、両鏡像体の生成割合は1:1の確率なので、生成物は常にラセミ体となる。ピルビン酸を還元剤で還元して得られる乳酸はラセミ体である。酵素反応で一方の鏡像体のみが得られるのは、酵素自身がキラルであるためである。
キラルな構造の表記:立体的な分子を平面上に書き表すときには、分子のもつキラリティを正確に表現する必要がある。一般には、結合の「棒」をくさびと破線で区別し、くさび(あるいは太線)は紙面から手前へ、破線は向こう側へ結合が伸びていることを表す。また、フィッシャー投影法という記法があり、キラル炭素を十字の中心において、結合を縦棒と横棒で表す。この場合、縦の結合はすべて中心から上下方向へ向かうにつれて紙面の向こう側へ折れ曲がっていて、横の結合はすべて手前に向いていることを表す。この方法を用いれば、グルコースのような複雑なキラル分子の立体構造を平面上に投影することができる。
分子不斉の発見:分子不斉の理論の起源は150年前のパスツールの時代に遡る。パスツールは、酒石酸アンモニウムナトリウムの結晶に鏡像関係にある2種があるのに気づき、それをたんねんによりわけた。それぞれを水に溶かして旋光性を調べたところ、一方は偏光を右に回し、他方は左に回すことがわかった。当時、鏡像関係にある結晶は水晶などですでに知られており、両鏡像結晶は逆の旋光性を示すことも知られていたが、パスツールはその旋光性の違いが結晶構造の違いによるのではなく、水に溶かしても失われない分子そのものの固有の性質であることを実験的に見事に示したのである。
→ コラム4 「鏡像体を嗅ぎ分ける」、5 「不斉増殖は可能か」、6 「絶対不斉合成の顛末」