図13
<芳香族性>
芳香族化合物ということばには現在では字義通りの意味はないことは前節で述べた。その代わりにベンゼンの安定性から派生した芳香族性という概念がある。ベンゼン環が極めて安定な構造なのは、sp2炭素が環状に配列して、そのp電子がすべて環状にオーバーラップしているためであった。それならどんな環状をしていてもいいのだろうか。たとえば、四角形から始まる一連の偶数角形を考えてみる。これらの環状炭化水素は一般式(CH)n(nは偶数)で表され、[n]アヌレンとよばれる一連の化合物である。これらの化合物には二重結合が交互に配置したベンゼンでいうケクレ形の構造を描くことができるし、すべてつながった環状電子雲構造を考えることも可能である。つまりすべて共鳴安定化による安定化合物になるはずである。ところが、実際は違うのである。環状につながるπ電子数が4で割り切れない偶数のとき、つまり偶数角形のアヌレンでは、炭素数が4で割り切れないとき(6,10,14,...)のみ共鳴安定化できる(芳香族性をもつという)ことが知られている。反対に、4の倍数のとき(4,8,12,...)は、共鳴構造をとると逆に不安定になる(反芳香族性という)。この法則をヒュッケル則という
ベンゼンはn=6なので、当然芳香族の代表であり、[18]アヌレンも安定な芳香族性を示すことが確かめられている([10]アヌレンなど中くらいのサイズの環は、角度ひずみによって平面共鳴構造をとりにくく、残念ながら安定にはならない)。それに対し、四角形のシクロブタジエン([4]アヌレン)や八角形のシクロオクタテトラエン([8]アヌレン)は不安定な化合物として知られている。これらの分子は平面構造をとるとp電子が重なり合って共鳴構造になり反芳香族性によって不利になりるため、実際には折れ曲がった配座をとっている。
この法則によって、環状につながった全体のπ電子数が4N+2になる場合は、環の形に無関係にすべて芳香族性を示し、系は安定化する。たとえば、ベンゼン環が二つつながった6+6環系のナフタレン(C10H8)は外周が10π系の芳香族化合物であり、その異性体であるアズレンは、5+7環系という奇数員環にもかかわらず、やはり外周が10π電子になるので、安定な芳香族性を示す。このようなベンゼン環をまったくもたない芳香族化合物を非ベンゼン系芳香族といい、構造的に魅力ある分子がたくさんある。奇数員環では、五角形の中性分子では5π系になってしまうが、1電子受け取ってアニオンになれば6πとなり、芳香族性を満たす。また七角形では逆にカチオンになればいい。事実、シクロペンタジエニルアニオンやシクロヘプタトリエニルカチオンは安定なイオンである。シクロペンタジエニルアニオンは鉄(II)イオンのような金属イオンと安定なサンドイッチ形のイオン性化合物をつくることができる(鉄の場合はフェロセン、一般にはメタロセンとよぶ)。
このほか、ベンゼン環がたくさん連なった多核芳香族炭化水素といわれる一連の分子があり、その中にはベンズピレンのように強い発癌性を示すものがあり、これらはコールタールの発癌性の原因物質である。また平面共鳴構造をとりながら全体がねじれてキラルになっているヘリセン(おもしろ化合物第1話)や、ケクレの名を冠したケクレンのような大環状分子(同第13話)もある。また、ピリジンやフランなど炭素以外の原子を含む芳香族化合物(ヘテロ芳香族)もたくさんある。この場合、ピリジンでは、ベンゼンの炭素をそのまま窒素で置き換えた構造になり、窒素はp電子を1個環に供与して6π系を形成しており、フランなどの五員環では、酸素のローンペア2電子を供与することにより全体が6π系になっている。遺伝情報を司る核酸塩基の骨格であるピリミジンやプリンも窒素を複数含むヘテロ芳香環である。より極端な環では炭素をまったく含まない芳香族分子も存在し、ボラジン(基礎1-2参照)はその代表である。
→ コラム8 「直線とジグザグの安定性」、9 「ウサギの耳とガン」