ご覧のようにベンゼン環を連ねて大きな六角形をつくったのが kekulene です。一辺がベンゼン環2個だと中空の部分が六角形でそれ自身がベンゼン環になってしまいますから(おもしろ化合物 第1話に登場する coronene がそれです)、中にスペースの空いた六角形としては、一辺がベンゼン環3個からなるこの kekulene が最小分子になります。
単にベンゼン環を連ねて大きなベンゼン環をつくったというだけならなんのこともないのですが、実はこの分子の共鳴構造にはちょっと特別な興味がもたれます。つまり実際の分子の共鳴構造がAのベンゼノイド型かあるいはBのアヌレノイド型か、ということです。もしAのようならば、大きな六角形を形づくる小さな六角形単位一つずつが共鳴構造をとっている、つまり全体は12個のベンゼンの重ねあわせで表されるのに対し、Bでは大きな六角形の外周と内周がそれぞれひとつながりのポリエン構造で表されます。Bの構造は一見単なるポリエンで不安定そうですが、よく見ると外周は[30]annulene、内周は[18]annuleneになっていますから、どちらもヒュッケル則から安定な芳香族性を示すことが期待されるのです。
この両者の区別はNMRによって容易に行うことができます。kekulene には環の外周に2種(Ha,Hb)、内周に1種(Hc)の3種のプロトンが存在します。もしベンゼノイド型であれば、この3種のプロトンはすべて共鳴構造(ベンゼン環)の外側すなわち環状電子雲による脱遮蔽領域に位置しますから、通常のベンゼン環プロトン同様に低磁場シフトして観測されるはずです。これに対し、アヌレノイド型では大きな環全体でひとつの共鳴構造(実際には二重)を形成しますから、外周プロトンは脱遮蔽、内周プロトンは遮蔽領域にはいります。つまり、Hcは大きく高磁場シフトすると予想されます。
実際の測定は実は容易ではなく(^^;、というのはこの kekulene 非常に溶解性が悪いため、1H-NMRの測定は力ずくで、1,3,5-trichlorobenzene-d3 の飽和溶液、215℃で50000回積算を強いられています。得られたピークは、δ7.94, 8.37, 10.45 に 2:1:1 の強度比で、合成中間体のNMRデータとの比較から、順に、Ha, Hb, Hcと帰属されました。大きく高磁場シフトしたシグナルが存在しないことから、kekuleneの構造はベンゼンノイド型であると結論されました。実際には、Cのようなフェナントレン構造の寄与が大きいと予想されています。
最後になりましたが、この合成は、テトラヒドロジベンゾアントラセン誘導体を二分子カップリングし、光酸化、脱水素によって行われました。収率はまずまずですけど、各中間体ともほとんど溶媒に溶けず、反応には苦心しています。ちなみに、kekulene 分子はC48H24で分子量は600ちょうど。緑黄色微細結晶で融点は620℃以上、500℃/10-3torrで昇華するそうです。溶解性は、1-methylnaphthaleneに沸点(245℃)で10mg/350mL、1,2,4-trichlorobenzeneに沸点(214℃)で1mg/100mLです。また、MSでは異常にフラグメントが少なく、分子イオン(100%)の他にはm/z 300(43%), 200(7%)にそれぞれ二価、三価イオンがみられるのみだそうです。さもありなんですね。
ref.: F.Diederich and H.A.Staab, Angew.Chem.Int.Ed.Engl., 17, 372 (1978).